クラリネット

私は吹奏楽部でクラリネットのパートリーダーをやっている。
高校三年で最後の定期演奏会が学校の体育館であった。
私は演奏会のことを両親に話してはいなかった。
当時のうちの家庭事情は悪いほうで、普段の生活でも両親との会話はまったくなかった。
むしろ私は家が嫌いだった。
演奏会当日、少し緊張しながら音出しをする教室に向かった。
教室にはすでに多くの仲間がいて、それぞれ音出しをしていた。
そのほとんどは両親から楽器を買ってもらっていた。
私はおじさんから借りている楽器にマウスピースをさした。
いよいよ本番。
演奏会はポップスステージまで進み、いよいよ私のソロが迫った。
ステージの前まで行くとそこには両親の姿が!
私は驚いてうまくソロに入ることが出来なかった。
今までになかった大失敗。
演奏会が終ってから両親が私の元へ来た。
「一人で吹くとこは残念だったけど、とても素晴らしい演奏会だったわ」
少し申しわけなさそうな顔で母が言った。
「あんた達がいたからだからね! なんで勝手に来るのよ!」
なんだか母は酔っているかのように、ロレツがまわっていなかった。
数年後私は東京の大学にいた。
もう楽器はやめた。
あの時の恥ずかしさが忘れられなくて。
ある日講義の合間に友達と話しているとケイタイが鳴った。
番号を知らないはずの父からだった。
「母さんが死んだよ」
私は電車に揺られ、実家に帰った。
そこにはシワだらけの父と、真っ白な母がいた。
他に誰もいなかった。
母は鼻に脱脂綿を詰められて少し苦しそうに見えた。
「お母さんこんな顔だった?」
東京へ出てから一度も実家には帰っていなかった。
「母さんなぁ、耳の癌だったんよ。もう聞こえなくなってずいぶん経ってたんよ。
普通は猫の病気らしいんだけど、母さん運悪かったんだなぁ」
じゃあ、あの演奏会のときも聞こえてなかったの?
聞こえてないのにソロ入れなかったのわかったの?
母には聴こえていたんだ。
私達の音楽が聞こえていたんだ。
私は改めて母の顔を見た。
ふと目を横にやると棺には、おじから借りっ放しだった私のクラリネットが添えられていた。
私の耳にはあの時失敗したソロが聴こえている気がした。
私は泣いた。
母の耳元で泣いた。